英一蝶展
10月27日 サントリー美術館
英一蝶は元禄年間に江戸を中心に活躍した絵師です。菱川師宣などに触発され、市井の人々を活写した独自の風俗画を生み出しました。その特徴は、鮮やかな色彩、細密な描写、そして自然と人間の調和を感じさせるデザインです。花や蝶が主題となっていることが多く、それらが生き生きと描かれ、観ると命の輝きを伝える力強い作品として見受けられました。数え47歳で三宅島に流罪になります。
江戸へ戻りますが、島で描かれた作品は「島一蝶」と呼ばれ、特に高く評価されました。江戸再帰後の英一蝶の作品には、日本の伝統的な色彩や金箔、銀箔の使用が見られ、華やかでありながらも落ち着いた趣を感じさせます。これらの素材が独自の光沢と質感を生み出し、作品全体に優美な印象を与えています。
また、細部にまで施された巧妙な技術により、観る角度や光の当たり具合によって異なる表情があります。今年没後300年で「絵師・俳諧師としての活動を包括的に展示された回顧展でした。個人的には当時の高志の必須教養であった「琴碁書画」を描いた「琴棋書画図屏風」に関心を持ちました。
(報告者・斎藤皓一)
田中 一村展
9月23日 東京都美術館 参加者7人
田中一村(1908~1977)の名は南西諸島の世界自然遺産登録と共に高まっている。「奄美の光、魂の画家」のキャッチフレーズ。その展覧会は漂白と波乱に満ちた一人の画家の物語である。
1908年に栃木県で生まれた田中は幼少期に野鳥を描くなど余りにも早熟だった。東京の名門私立・芝中学で学び、東京美術学校に進んだ。すぐに退学したのは、岡倉天心一派が築いた院展の画風に馴染むことができなかったからだ。
自己主張を込めた異色の日本画を発表し続けるが、公募展では相次いで落選。「世俗的な栄達とは無縁」されるが、椿図屏風(1931年)、白い花(1947年)などは不屈の画業の軌跡を刻んでいる。
50歳にして奄美諸島の亜熱帯の自然の中に、揺らぐことのない己の道を見出だすことになる。千葉から奄美大島に移住し、染物工場で職工として働きながら、独自の日本画の表現方法にたどり着いた。巨大な自然風景への執着を描き、絹本大作の連作に至るまでの三百余点。亜熱帯の陽光の中に生い茂るガジュマル、ソテツ、アダン。それらの重量感あふれる緑色が日本画とは思えないほどに厚い絵の具で描かれる。
画布の中で躍動するアカショウビン、ルリカケス、アカヒゲなどの野鳥が希少な命を謳歌する。画家が幼少期から追い求めてきた自由自在の自然讃歌である。それは奄美の自然に触発され、ようやく自分のものになった。そのダイナミックな自己発見の過程が「岩上の磯鵯」(1960年)、「不喰芋と蘇鐵」(1973年)などの大作に込もる。南国の自然の中で開花した〝日本のゴーギャン〟を観る展覧会だった。
(報告者・滑志田隆)
神護寺展 空海と真言密教のはじまり
2024/8/17 東京国立博物館 平成館
神護寺に伝わってきた国宝、名品、至宝の数々を一堂に鑑賞できる貴重な機会でありました。空海や初期の神護寺にまつわる作品に、空海の自記筆のメモ「灌頂暦名」がありますがこの中に伝教大師最澄の名前があるのに感動いたしました。空海名筆で有名ですが、筆跡には王義之や顔真卿に何か通じるスタイルがあるように感じられました。
次は歴史教科書に出てくる「伝源頼朝像」です。今回は模写ではありましたがこの絵が神護寺蔵であったのかという思いと神護寺の宝物、空海の活動の偉大さに 驚かされされます。この絵の反対側には、縦4メートルを超える両界曼荼羅の金剛界が展示されています。大日如来を中心とした密教の宇宙観が図示され、雄大な迫力が圧巻です。
次のコーナーでは円満な慈悲の相を示し、赤釈迦と称されている「釈迦如来像」が出迎え、神護寺の繁栄を伝える数々寺域の風景等の絵や仏像が展示されております。なかでも5大虚空蔵菩薩像は円形に並べられ、密教の仏教空間的雰囲気を感じる展示空間です。最後が国宝の神護寺御本尊「薬師如来立像」です。かなり厳しい眼差しをしながらどっしりとした頼もしさを醸し出している立像で、ほとんど一本木作りの技法を用いている平安時代の名品であります。
(記 野口 昇一)
生誕100年越路吹雪衣装展
7月15日 坪内博士記念演劇博物館
母校早大坪内博士記念演劇博物館へ行く。国民の祝日・海の日なのに結構学生がいる。シエークスピア完訳記念館でもある館では珍しい企画。まずピカピカのエレベーターで3階へ、じつは大学でエレベーターに乗ったのは初めて、在学中は4階建て教室ばかりだった。イブサンローランデザインのきらびやかなドレスが10体ほど林立、チョット触ってきた。「秘密」ショウケースにも陳列。白、赤、花模様、この衣装でラストダンスは私に、愛の讃歌を歌ったのだ。衣装のほか当時のポスター装飾品など拝観。校友の歌手クミコさんは越路吹雪に習ったのかな。
稲門会では20年位前、坪内博士の熱海にある邸宅に一泊旅行をした。当時そこは大学職員保養所で10人以上のメンバーで出かけました。見晴らしの良い傾斜地で広い庭に古い書庫があり、老朽化で5人以下の入場制限でした。私はテニス同好会で25年来毎年軽井沢合宿を続けているが、大学の軽井沢セミナーハウスの林間にグリーンハウスという明治時代の木造校舎が移築されている。そこに坪内博士が講義をされた教室がある。
越路吹雪衣裳展鑑賞の後は、隣の早稲田大学国際文学部村上春樹ライブラリーの展示、会津八一記念館を見て高田馬場駅近くで反省懇談研究会。
今回から新入会員立花聡子さん、文化構想学部2012年卒が参加されました。大歓迎です。
(記 金子)
法然と極楽浄土
2024/6/2 東京国立博物館 平成館
法然の人生と思想を「その時代」「阿弥陀仏の世界」「弟子たち法脈」と「江戸時代の浄土宗」とテーマを分類して分かりやすい。教科書に出てくる「往生要集」「法然上人絵伝」など絵画、彫刻、書簡、経典などの貴重な資料が展示をしている。
法然の生涯を紹介し、彼の思想や教えがどのように当時の文化や宗教的な風潮と極楽浄土のイメージを具体的に理解し、法然が目指した浄土宗の信仰の意義を垣間見ることができる。
法然(1133年 - 1212年)は、日本の浄土宗の開祖であり、浄土信仰の普及に大きく貢献した。その思想は「念仏」を唱えることで誰もが極楽浄土に往生できるというもので、当時の社会に大きな影響を与えた。今回の法然と極楽浄土展は、法然の生涯と彼の教え、歴史的背景や宗教的意義を個人的に少しは知ることができました。
(斎藤皓一 記)
川崎大師吉例十年目毎・大開帳奉修
5月12日
久し振りに神奈川県へ足を踏み入れました。五月は十年目毎の大開帳で大賑わい。大本山川崎大師平間寺という。平安時代平間という武士が尾張を追われて流れ着いて、漁師になり日夜厄除け祈願を続けているうち、高野山の尊剣上人が立ち寄られ平間兼乗と協力して寺を建立したという。
当日は赤札授与の行事で善男善女が長蛇の列。大本堂、大山門、五重塔など建物は壮大であるが、美術愛好会は寺宝展を見る。弘法大師の行状図仏のお顔姿を神妙に拝む。普通にあるお顔に見える。彫刻像は少なく絵画、曼荼羅が主で13仏と12天を比べると姿顔がだいぶ異なる。隅寺心経は端正な字、私は入浴中眠らないように般若心経を毎日唱えている。境内には秩父34観音、西国33観音、坂東33観音の石柱があり百観音を3分間で踏破する。嬉しかったのは茶筌塚の脇を歩いていると、お茶をどうぞと中書院座敷に招かれ抹茶を振る舞われた。美味しかった。
八角五重塔では塔内に昇れて40段の螺旋階段を順序よく流された。境内には芭蕉、虚子、子規などの句碑があり文学散歩にもなる。6人の凡人が6聖人になったよう。{失礼}帰宅したら丁度10,000歩でした。
参加者 浜野 野口 水野夫妻 滑志田 金子 計6人でした。
金子正男記
上村松園 松篁 淳之 文化勲章三大の系譜展
4月20日 日本橋高島屋8階ホール
当日は4月20日、土曜日ということで、混雑を予想していたが、思ったより空いていたため落ち着いて鑑賞ができた。
この三人は、実の母、子、孫にあたり、親子三代にわたる文化勲章受賞という快挙を遂げた一族である。それぞれ日本画の巨匠であるが、中でも祖母にあたる松園は文化勲章最初の女性受賞者として特筆される。
松園はそのたおやかな美人画で有名である。早くからその才能が認められ、大きな展覧会での入賞はなんと明治23年、15歳の時であった。当時の女子教育の状況を考えると、いかに早熟で優れていたか感銘せざるを得ない。彼女の作品の多くが日本髪、着物姿の美人画である。彼女は生涯この主題を追い詰めたが、作中の女性は、殆どが正面に顔をむけておらず、伏し目がちである。彼女は幼くして父を亡くし、母一人に育てられた。その母への思慕の念が、江戸風俗の女性像となって表現されている。控えめで、江戸情緒に満ちた奥ゆかしさを感じる女性は人の心を捉えて離さない。
松篁は母の主題が人物であったのに対し、自然に惹かれたという。母に教えられることなく、その制作に取り組む姿勢に打たれて絵を描き始めたという。その観察対象が、植物であり動物、特に鳥たちであった。彼の描いた絵の中では、植物は描かれている動物たちと同じように主役を演じている。近代画壇における花鳥画の大家である。
敦之は鳥たちとの対話により制作を行うという。そのため彼は1600羽を越す鳥たちを飼育し、観察を行っている。彼の絵に登場する鳥や、動物たちの姿には彼の愛情を感じざるをえない。
文責:水野
西東京稲門会美術愛好会
3月30日(土)の美術愛好会報告。集合地は東京駅前丸の内の高層ビルJPタワー/KITTE3階。東京大学「インターメディアテク(間メディア実験館)を見学した後、丸の内「アーバンテラス」の立体造形プロムナードを見歩きました。この日の都心は最高気温27度のポカポカ陽気。ゲスト参加の中国人留学生を入れて参加者10人。
「インターメディアテク」は2013年開館。東京大学総合研究博物館は日本郵便株式会社とミュージアムのあり方について研究し、「現代社会におけるミュージアムの役割を追求すべく創設された公共貢献施設」とPR。鉱物や化石、生物、民族考古資料などの博物標本がギッチリ所狭しと並んでいました。19世紀中葉以降、帝国大学の権威のもとに世界中から収集された資料の数々。鯨類の全骨格標本や巨大なタカアシガニの乾燥標本、世界各地の先住民族の使用した土器や衣装‥。中には頭の二つある奇形亀の写真や巨人症の人物の掌のX線写真など奇抜な展示品も。
普通の博物館と異なり採集時期も場所も「不明」の珍品類が、カテゴリーを無視して雑然としかも妙に権威的に陳列されていることが特徴です。そのユニークさについて東大の売り文句は「皇居や東京駅など伝統的建造物群と現代の先端的商業施設が彩る東京。そこに、それらとは場違いにも見える一世紀あるいはそれ以上も前の大学什器とともに荘厳な雰囲気の中にならんでいる」とか。「大学什器」という代物には“略奪”のイメージすら付きまとうーーと感じたのは、きっと私ばかりではないことでしょう。まことに不思議な感慨をももたらす空間でありました。
日没を意識して急ぎ足で回った「丸の内ストリートギャラリー」。大手町から有楽町に通じる丸の内仲通り沿いに19点の立体造形が並んでいました。私たちが見たのは1. ルネッサンス(キム・ハムスキー)2. 展望台(ジム・ダイン)3. 小さな魚を大事そうに運ぶ女の子と金ピカの空を飛ぶ青い鳥(中谷ミチコ)4. われは南瓜(草間彌生)5. 白のマスク(澄川喜一)6. 恋人たち(バーナード・メドウズ)7. 《羊の形(原型)》ヘンリー・ムーア。あとは覚えきれません。と言うよりは記憶に残らず。しかし、草間彌生の作品はさすがに“尋常ではない”変形した力感表現です。この色彩の魔術師は「野外」というか「野生」が似合っています。
これらアート群は1972年より三菱地所株式会社と公益財団法人彫刻の森芸術文化財団が共同で取り組む「街づくりプロジェクト」とか。2022年に新作で入れ替えを行い、改めて注目されました。今、SNSなどオンラインメディアが横行する日々に、足で歩いて美と出会う歓びを復元しています。その意図に拍手。
反省会は池袋の中華料理店「・・・」で。店名は忘れましたが、新疆ウイグル自治区の料理の変わった風味が忘れられません。案内してくださり、中国語でオーダーしてくれた東大助教、蒋姸さんに深謝。また来てね。(報告者・滑志田 隆)
『建立900年・特別展「中尊寺金色堂」』
@東京国立博物館 2月11日(日・祝)
入場してすぐ圧倒されるのは、8KCGの技術(NHKと東京国立博物館共同開発)を用いて再現(幅約7㍍×高さ約4㍍の大型ディスプレイ上に)された、黄金に輝く原寸大の金色堂。室内装飾の工芸技法、黄金に輝く空間を隅々まで堪能。中尊寺を訪れたのは半世紀以上も前のこと、当時こんなに輝く金色堂を見る術もなく、今回改めてこの迫力と美しさに感動を覚えることとなった。
しかし、それよりも何よりも阿弥陀如来をはじめとして観音菩薩、勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天(全て国宝)が、奥州藤原氏ゆかりの平泉から900年の時を経て、初めてわざわざ東京・上野にお出ましいただいたこと。こんなに間近で拝謁できる機会もなく、ましてや後ろ姿はまず見られない。
その中でも、平和を願う奥州藤原氏建立の中尊寺金色堂の本尊「阿弥陀如来坐像」(作者不詳)は、“小ぶりながら堅牢な造り、しなやかな体つき、浅く刻まれた衣紋の表現に加えバランスの行き届いた「破綻のない円満なお姿」”との評。その姿は、当時の京にはなく後の鎌倉時代に流行するもので、先例にとらわれない「平泉文化の柔軟性と先端性」を物語っているとのこと。きりっとした目に、ハリのある頬、その表情は穏やかではあるが意志の強さも感じられる。
金色堂を極楽浄土として表した初代清衡の精神に触れつつも、非戦の願いはいつの時代も虚しい。
最後に平泉といえば「奥の細道」の芭蕉の句。
源義経が平泉にて自害、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)のこと
夏草や 兵どもの 夢の跡
五月雨の 降り残してや 光堂
100年平和が続いた奥州藤原氏の栄枯盛衰の歴史に芭蕉も感ずるものがあったのか。
(緒方記)
「本阿弥光悦展」1月27日(土)東京国立博物館
昨年西東京稲門会に新規入会。以来、毎月諸先輩方と都内の美術館を回り、鑑賞後の懇親会に参加するのが新たな楽しみになっている。今回そのレポートを書く役目を初めて仰せつかった。しかも本阿弥光悦という超有名人である。
さて、初めて彼の名前を知ったのはいつのことだろう。はるか昔の記憶をたどると、「高校日本史」の教科書に載ったのを目にしたのが最初ではないか。しかし、光悦とは一体何者であるのか。書家?画家?陶芸家?そのいずれにも収まることがない多岐にわたる活動。まず肩書にも困ってしまう。今回、国立博物館で開催中の特別展「本阿弥光悦の大宇宙」はそんな疑問に答えている。
刀剣の鑑定を家業とする名門に生まれた光悦だが、本阿弥家は日蓮法華宗を信仰。光悦自身も熱心な信者だった。裕福な商工業者の集まりである京都の町衆も同じ信徒仲間。そうした信仰を通じて、様々な分野の職人たちとのネットワークが形成されていった。現代風にいえば、光悦はさしずめ「マルチクリエーター」「プロデューサー」といったところだろうか。
今回の展覧会では、書画、漆工芸、陶芸など、様々な分野で活動した光悦の傑作が陳列されている。国宝もいくつも展示されているが、個人的に最も印象に残ったのは重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」である。光悦の書に下絵を提供したのは、義理の兄弟でもある俵屋宗達とこれまたビッグネーム。電話もメールもない数百年も前の話。この大作を仕上げるまでにどれだけの書状が交わされ、打ち合わせが繰り返されたか。そんな舞台裏に思いをめぐらせるのも楽しい。
金井良寿記(S57・文)
永遠の都 ローマ展
東京都美術館 2023年12月5日観覧
「永遠の都 ローマ展」はまさに時空を超えた魅力の宝庫でした。会場に足を踏み入れると、カピトリーノのヴェーナスが出迎え歴史の息吹が感じられ、古代ローマの栄華が生き生きと蘇ります。カピトリーノの豊富な展示品は、彫刻や美術を通じて古代文化の深奥に触れる機会を与えてくれました。特に、建築や技術の進化に驚きを禁じ得ませんでした。美しく復元された古代の建造物や彫像は、その当時の巧妙な工芸と芸術の粋を垣間見ることができました。展示の中で、ローマの歴史を彩る人々の生活や日常に迫るコーナーもあり、彼らの営みがどれほど先進的で多様だったかに感心しました。
「永遠の都 ローマ展」の目玉は、古代ローマの美術や文化を象徴する傑作や特筆すべき展示品がいくつかあります。一般的に「永遠の都 ローマ展」で見られます、その中でも特に注目すべき目玉のとしては次のようなものです。
- 古代の名作彫刻: ローマ時代の有名な彫刻家による優れた作品が展示されている。例えば、プラクシテレスやミロのヴィーナスのような彫刻が、その技巧と美しさで注目される。
- 復元された建造物: 展覧会では、古代の建築物が復元され、訪れる者を当時のローマの雰囲気に引き込まれます。コロッセウムやパンテオンの模型や復元が、会場分かりやすくします。以前、私はローマをバチカンからパンテオンを経てコロッセウムまでを散策した時のことが思い出されました。
- 貴重な美術品: モザイクやフレスコ画、古代の美術品が一堂に陳列されます。これらの作品は、当時の芸術家たちが描いた風景や神話、歴史を通じて、古代ローマの文化や信仰を伝えます。
- 歴史的な重要性を持つアーティファクト: ユリウス・カエサルやアウグストゥスなどの歴史的な偉人に関連するアーティファクトや文書が展示され、その時代の政治や社会の洞察を提供している。
(斎藤皓一 記)
やまと絵展
11月18日(土)東京国立博物館
今回のやまと絵展は中国の影響を受けながら、独自にアレンジしながら日本的にものを描こうという雰囲気が強まってきた、平安時代から室町時代の優品が精選、展示紹介され、千年を超す歳月の中、やまと絵の優美、繊細さの中に、それぞれの時代の最先端の王朝美の精華を受け継ぎ革新的であり続けてきた様子を鑑賞できました。
先ず展示は平安時代、中国絵画の直輸入様式から和歌が誕生、王朝貴族達の文化的営みが基盤となり、彼らの美意識を色濃く映し出した調度手本や装飾教、工芸品も含め展示されております。圧巻は信貴山縁起をはじめとする四大絵巻、院政期絵巻の数々が鑑賞できることです。
鎌倉時代、やまと絵を担い続けたのは宮廷貴族社会であり、人物や風景の理想化が志向され、王朝時代を慕うかのような美術作品や様々な主題の絵巻が展示され鑑賞できたことは貴族社会の美意識の健在さを示していると思いました。
南北朝、室町時代にはやまと絵の成熟期となり、中国の水墨画に対抗するかのように、多彩な色目と金銀加飾による華やかで眩い画面がやまと絵で志向され和漢の美の融合、新たな文芸に触発された美術の素晴らしさが堪能できやまと絵の心髄に触れたように感じました。
今日鑑賞したやまと絵の優品逸品は千年を超える日本の王朝文化の雅を伝える文化財で、国宝、重要文化財等として、東京国立博物館他日本全国の博物館、美術館、神社、仏閣にそれぞれ厳重に管理・保管されております。今回の展示のように一堂に集められ鑑賞する機会は二度とあるとは思えません。貴重な美術品を満喫した一日でありました。
野口 昇一記
棟方志功展
秋晴れの空の下、皇居の緑が映える東京近代美術館で棟方志功展を見学した。棟方志功は、1903年青森に生まれ、若い時にゴッホの『ひまわり』の絵に衝撃を受け、「わだばゴッホになる」と画家を志した。
棟方は当初油絵を描いていたが、認められず版画に力を入れ始める。後に柳宗悦、濱田庄司をはじめ多くの「民藝」を主張した人達の知遇を得、高く評価されることになる。今回の展覧会では、志功が柳らに認められたきっかけとなった〈大和し美わし〉をはじめ、彼の代表作とも言われる〈二菩薩釈迦十大弟子〉など、志功の精力的な活動を表すかのように、その作品は白黒刷り、色彩刷り、作品の大小などを問わずに圧倒的な迫力で、まさに見るものを襲ってくるかのように展示されている。
志功は目が悪く、板木に触れんばかりに顔を突きつけての作品作りは有名だが、出来上がった作品では、彼の板木に対する愛情そして信仰心の厚さを感ずるものが多い。海外でも有名となった志功であるが、多くの雑誌の表紙やその挿絵、故郷青森のねぶた絵、包み紙のデザインなど卑近なものにも気楽に応じている。また彼の描く女性の顔は、谷崎潤一郎の〈鍵〉の挿絵以来有名となったが、志功の女性に対する憧れを感ずることができる。
偉大な芸術家であるが、我々が志功に親しみを感ずるのもそんなところがあるためかもしない。
水野 聰 記
ガウディとサグラダ・ファミリア展
9月3日(日) 東京国立近代美術館
この日も猛暑日一歩手前の真夏日。今回は東京のど真ん中、千代田区北の丸公園にある国立近代美術館の「ガウディとサグラダ・ファミリア展」に出かけました。
人気のある「サグラダ・ファミリア展」だけあって入場規制が敷かれ、会場内もかなりの混雑ぶりで、展示品を観るのも、説明文を読むのも一苦労でした。
サグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会、日本名聖家族教会)はカタロニア・モダニズム建築の中で最も知名度が高く、スペイン第2の都市、バルセロナのシンボルとなっています。天才建築家アントニ・ガウディの作品群を構成するものとして2005年にはユネスコの世界文化遺産に登録されています。
この建物、発案から既に150年が経過しているのにも拘らず、未だ完成に至らず現在も建築中というから驚きです。しかし、今建築中の複数の尖塔のうち最も高い塔(170m)となる「イエスの塔」の完成によってガウディの没後100年となる2026年に遂に全体が完成予定とその日が間近に迫っています。
観覧後出席者5名は大手町地下街のすし店にて懇談しましたが、なんと出席者の6割の方が、現地バルセロナを訪れ、サグラダ・ファミリアを自らの眼で確認していたことが判明。その時の印象を語り合い、場は大いに盛り上がりました。
(高橋 隆門記)
古代メキシコ展
8月19日(土)東京国立博物館
猛暑の中、午後4時、会員は上野に集合。アメリカ以外では奇跡の初公開となったマヤの黄金時代を築いたパカル王の妃・通称「赤の女王」を中心とした出土品を心ゆくまで見ることが出来ました。
又、王と王妃の墓、アステカの大神殿、テオティワカンの三大ピラミッドなど古代都市遺跡の魅力を映像や臨場感のある再現展示で楽しむことが出来、充実感いっぱいの展示会でした。
メキシコの主要博物館から選ばれた140件の至宝はボリューム的にもものすごく、やや忙しい鑑賞となりました。
打上げの本場中国料理が又すばらしく、楽しい夕食会になりました。
(小嶋 弘記)
マティス展 東京都美術館
7月16日、この日も猛暑日。灼熱の中、思い切って上野へ向った。
都美術館に16時集合になっていた。思いの外参加者は多く11名。
皆マティスの魅力の方が暑さに勝ったに違いない。
自画像でマティスの顔を初めて知る。師のモローと違って彼の画は、
赤、青、黄など明るい色を使っている。観ていても力が湧いてくる。
風景画より人物画、静物画の方が力作が多い。私は、お笑いになる方も
いるかもしれないが、どの作品展に行っても次の様な事を考えながら
観ている。「この中で一番好きな画をあげると言われたらどれにしよう
か。」と
今回は、フォーヴィズムの出発点となった「豪奢、静寂、逸楽」にする
ことにした。描き方も珍しく点描である。
絵画以外で心を打たれたのはNHK製作のヴァンヌのロザリオ礼拝堂の
ヴィデオである。マティスも生涯の創作の集大成とみなした建築物と
言っているそうだ。
水色一色だけを使用したステンドグラス。光の射し様によって変わる
ろうそくの色。こんな素晴らしい礼拝堂がフランスにあるとは知らな
かった。この礼拝堂でお祈りできたらなあと思いながらヴィデオの世界
にのめり込んでしまった。
酷暑をしばし忘れさせてくれたマティス展であった。
(河村洋子記)
ルオーを楽しもう!
20世紀美術の展覧会が盛んですね。
美術愛好会でも1月に「ピカソとその時代」(国立西洋美術館)、4月に「エゴン・シーレ展」を楽しみました。
今回は「ジョルジュ・ルオー展」です。
ピカソはキュビズム、シーレは表現主義、マティスはフォーヴィスム、モネは印象派というイメージが定着していますが、ルオーにはそうした画派を特定した語られ方はあまりされて来なかったような印象があります。
実際、会で観覧後のクイズの答え合わせでも、「新古典派だと思った。」などの感想をいただきました。
この際、一度復習してみましょう。
最近、展覧会のチラシを飾った作品から時代別に見ていきます。
「ルーヴル美術館展―愛を描く」のチラシのW表面を飾ったのはブーシェの「アモルの標的」とジェラールの「アモルとプシュケ」でした。ブーシェは美術史では18世紀初頭の装飾性の高い宮廷美術のロココ、ジェラールは18世紀半ばのロココに対して自然で写実的な表現に回帰する新古典主義の代表的な画家です。これに先立つ17世紀の絵画が古典主義で、ギリシャ・ローマの古典・古代を理想とし、均整・調和を重んじました。プッサンやラトゥールなどが代表的な作家です。こうした画派の権威性に対抗し、1874年に「第1回印象派展」を開いたのはモネら印象派の画家たちでした。
「ジョルジュ・ルオー展」での展示でもあったように、ルオーとマティスはモローの教室に学んでいました。モローは聖書や神話に題材をとった理想世界や魂の状態を幻想的に描く作風で象徴主義の作家として知られています。これに対し、マティスは1905年のサロン・ドートンヌ展でフォーヴィスム(野獣派)によりルネサンス以降の伝統である写実主義とは決別し、目に映る色彩ではなく、心が感じる色彩を理知的に表現しました。一方、同時期にブリュッケを中心とした絵画運動のドイツ表現主義は情緒的に色彩を使用しました。「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」のシーレは象徴主義、表現主義に影響を受けながらもゴッホに傾斜し、独自の画風を確立しました。
20世紀にはピカソとブラックによってキュビズムが創始されました。それまでの絵画では1つの視点から作品を描いていたのに対しキュビズムでは様々な視点から見た面を1つのキャンバスに収めています。
このように、次回に観覧するマティスと今回のルオーは革新的に20世紀現代美術への扉を開いた大画家であり、二人を比較したり美術史を眺め直したりすることで、アートを鑑賞する楽しみがより深まるのではないかと思っています。
(浜野伸二記)
NHK大河ドラマ特別展「どうする家康」
5月13日、美術愛好会一行は新入会員・金井良寿さんをお迎えし、日本橋三井記念美術館のNHK大河ドラマ特別展「どうする家康」を鑑賞しました。
1542年、貧しい小国・三河の岡崎城で生まれた少年・竹千代が天下を取るまでの波乱万丈の人生。終わりのない戦乱の時代をどう切り開いてきたのか、どうする家康!!
会場の茶碗、刀剣、甲冑や関ケ原合戦図などの大物屏風、久能山の文化財、信長・秀吉はじめ各武将の画像など時代の背景がよくわかる展示物がいっぱいでした。
代表的な出来事を記してみました。
・三河國寺部の攻撃に参加(初陣)。実名を元康と改める、17才。
・桶狭間山で今川義元が敗死、19才。
・織田信長と和解する、20才。
・元康を家康と改名、22才。
・徳川に改姓、24才。
・遠江浜松城を築城。姉川の戦い。上杉謙信と同盟、29才。
・三方ケ原の戦いで信玄に大敗、31才。
・長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田勝頼に勝利、34才。
・相模北条氏と同盟を結ぶ、38才。
・武田氏滅亡。本能寺の変勃発、41才。
・織田信雄に与して羽柴秀吉と戦う(小牧・長久手の戦い)。
11月、秀吉と講和する、43歳。
・本城を駿河城に移す、45才。
・北条氏直が秀吉に降伏、49歳。
・豊臣政権に参画、53歳。
・秀吉死去、57歳。
・大阪城西の丸に入る、58歳。
・関ケ原の戦いに勝利、59歳。
・従一位右大臣兼征夷大将軍に叙任、江戸開幕へ、62歳。
・駿河駿府城に入城、66歳。
・大坂冬の陣起こる、73歳。
・大坂夏の陣起こり豊臣氏滅亡、74歳。
・死去、久能山に埋葬される、75歳。
・日光に改葬される
(詳しくはNHK出版・どうする家康、NHKドラマでどうぞ)
(展覧会終了後、会場前の道路で神田まつりご一行に会うことが出来、暫しまつりの一部を楽しむことが出来ました。 小嶋 記)
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