西東京稲門会・散策の会 例会報告 

2015年6月 栃木宿 

 

23 )  晴れ

 

    天気予報では、関東地方は不安定な天気で、突風や雷雨があるかも知れないということであった。この予報に恐れをなして参加を取りやめた人がいたようだが、池袋駅に集まったのは7名であった。しかし天気は晴れで、やや蒸し暑かったがまずまずの日和であった。

 

    池袋から湘南新宿ラインで栗橋へ、東武日光線に乗り換えて栃木駅まで約1時間50分の小旅行である。栃木駅北口を出ると広いロータリーがあって、市内観光用の市内循環のレトロバスやあじさいまつりの太平山へ向かうバスが待っていた。人は少なく閑散としていた。

 

    駅前からまっすぐ伸びる「蔵の街大通り」を北へ向かって歩く。歩道が広く、電線がないので視界が広く気持ちがよい。一同の目を引いたのが学習塾や予備校の多さである。駅前の団子屋に目を付けた人もいた。

 

    15分も歩くと昭和の面影を残す古い商店が見えてきた。「三枡屋本店」と看板の文字が右から左へ書かれているのも懐かしい。

「五十畑荒物店」の店先には座敷箒がぶら下がり、麦わら帽子や竹細工の虫かごなど都会では滅多に見られなくなった商品が並んでいる。遠い昔を懐かしみながら店内の商品を見ていると老夫婦が応対に出てきた。おじいさんの話では、NHKの「あさいち」という番組でタレントの照英が来て撮影していったという。放送は24日だという。翌日テレビを見たら、この店の老夫婦と若い主人が出ていた。        

 

  

    あだち好古館は江戸末期から明治中期に建てられた呉服商の蔵を改修したもので、日本画、有名人の書・書簡、浮世絵、古美術・彫刻、骨董品、古民具、甲冑などが展示されている。    特に広重の東海道五十三次(保永堂版)は全55枚が揃っているし、勝海舟、大久保利通、頼山陽の書などは素晴らしい。

 

★ 「かな半」は江戸時代から200年ほど続く古い旅館であるが、通りに面した部分は現在お食事処として営業しているので、ここで昼食とした。丁寧に手作りで料理を出しているというが、30分ほど待ってようやく料理が出てきた。

      

    かな半を出ると山本有三生誕の地碑や下野新聞社があり、万町交番の角を左折すると日光例幣使街道である。この街道沿いに岡田記念館がある。

岡田家は古くは武士であったが、慶長年間に帰農して栃木に移住して荒地を開墾した。これにより徳川幕府から「嘉右衛門新田村」の名称を与えられ、当主は代々嘉右衛門を名乗っている。現在の当主は第26代である。日光例幣使街道の開設に伴い名主役を、また畠山氏の知行地となると代官となった。巴波川の舟運と街道の往還を通して大きな財産を築いた。

 

     

 

    代官屋敷跡には代官屋敷のほかに茶室、蔵などがあり、岡田家に伝わる例幣使饗応用の食器類、武具類、美術品が展示してある。栃木で一番古く10年ほど前まで利用されていた理髪店もある。

 

      

    道一本隔てた巴波川沿いに22代当主の建てた別荘「翁島」がある。天井には樹齢3000年の屋久杉や2000年の北山杉、廊下には長さ6間半、幅3尺、厚さ1寸の欅の1枚板、床柱には紅葉、檜はすべて木曽産を使うなど材料にこだわり、最高の腕を持つ職人を使って建てたものである。22代目当主は風流人であったというが、その財力の凄さも目を見張るものがる。

翁島は必見の価値がある。

 

    

  

  翁島から巴波川沿いに下って、山車会館で「とちぎ秋祭り」で曳かれる山車を見学し、塚田歴史伝説館へ行った。塚田家は江戸時代後期から木材回漕問屋を営み、巴波川から江戸深川まで木材を運んでいた。巴波川沿いに並ぶ蔵の風景は栃木を代表する景観である。           塚田記念館はロボット仕掛けの展示が多い。入口近くの座敷には三味線をかかえたおばあさんが座っていた。人形だとはすぐ分かったが、間もなく三味線を弾き始め、歌を歌い、説明を始めた。おばあさんの説明に熱心に耳を傾けているおじいさんが座っていたが、我々はすっかり先客がいるのかと思っていたが、これもロボットであった。民話劇を演じるのもロボットであった。

 

    

 

    栃木市内を一巡して午後4時前に栃木駅に戻ってきた。

 

参加者  小島恕雄、佐野信男、志賀勉、滑志田隆、野本瑩一、比留間治男、房子   以上7名

写真と文 小島

 

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