西東京稲門会・散策の会 例会報告 

2015年11月    一本松山 

 

1117 )  晴れ 後 曇り

 

    天気は薄曇りでときどき晴れ、気温は1か月ほど季節が逆戻りしたような温かさである。

 

    高尾から2駅目の藤野駅に降り立ったのは予定通り10時7分。駅前の甲州街道を横断し、急な坂を下って桂川(相模川)にかかる弁天橋を渡って対岸に。今度は急な坂を上って「芸術の道」という広い通りに出た。振り返ると桂川の向こうに中央本線、中央高速道が並んで走っているのが見える。周囲の山々は紅葉して色鮮やかである。

       

      弁天橋より桂川下流方面を見る          並行して走る中央線と中央高速道

    「芸術の道」を右へ進む。民家の庭先には菊が咲き、真っ赤な柿の実がたわわに実っている。やがて道が狭くなり両側から林が迫ってきた。木々が紅葉して見事である。この林の中に立派な石の鳥居が現れ、その右には『延喜式内 石楯尾神社』と書かれた大きな石碑が立っている。急な石段を登ると朱塗りの門があり、その奥に朱塗りの本殿が建っている。意外と広い境内で、神聖な雰囲気である。

       

       石楯尾神社鳥居                     本殿

     石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)は927年(延長5年)にまとめられた「延喜式神名帳」に記載されている相模国の延喜式内社13社の1つである。創建年代は不明だが、文献には857年(天安元年)という記録もあるという。1569年(永禄12年)に武田信玄が小田原の北條氏を攻めた際の三増峠の戦いで戦火にあったという。祭神は日本武尊で、日本武尊が東征した際に、この石楯尾神社に立ち寄ったという。かつては相模川(桂川)の対岸にあった「エボシ岩」を崇拝していたが、明治に中央線を敷設するときに撤去されてしまったという。

  

★ 神社の裏手が石楯山登山口である。「遊歩道入口」と書かれた案内板と「A01 石楯山」と書かれた標識が立っている。山道を登り始めると季節外れのヤマツツジが咲いている。この辺りはヤマツツジの名所らしい。10分も登ると石楯山の頂上に着いた。桂川上流方面の眺望が素晴らしい。遠くには扇山が見えている。

         

        ヤマツツジとススキ                   石楯山頂

    石楯山を後に尾根道を東に向かって歩く。「遊歩道」というにはやや上り下りが激しいが、カサカサと落ち葉を踏みしめながら歩く道は実に楽しい。この山域に入っているのは我々7人だけらしく、誰にも会わない。30分ほど歩き名倉峠で車道を渡り、再び山道に入った。一本松山に着いたのは12時半であった。ここで昼食・休憩とするつもりでいたが、山頂は意外に狭く、展望もきかないので、更に40分ほど歩いて京塚山で昼食・休憩とした。

           

                     紅葉の尾根道

    京塚山は南東の展望がよく、相模原市方面が望める。山頂にはテーブルとベンチがあって昼食にはもってこいである。ベンチの横に大きな丸い石がある。付近の岩石とは異質の石である。

近くに説明板があったので読んでみると、この石が石楯尾神社で崇拝されていた「エボシ岩」であるという。数トンはあろうかという大きな石である。どのようにして運び上げたのだろうか? 暫しその方法についてあれこれと推測をしたが、結論の出るはずもなかった。

    

           京塚山頂にて  右下が石楯尾神社の「エボシ岩」

 

    京塚山から約30分で藤野駅に戻ってきた。休憩・食事時間も含めて4時間の楽しいハイキングであった。

 

 

鎖場に息ととのふる紅葉狩    滑志田流牧

 

駅を出てすぐに吊り橋谿紅葉   松尾 良久

 

 

   

 

参加者  金子正男、小島恕雄、滑志田隆、松尾良久、水野聰、安井義彰夫妻  以上7名

写真と文 小島

 

 

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