西東京稲門会・散策の会 例会報告 

2016年9月    深 谷 

 

27 )  晴れ ときどき くもり

 

    明治時代の実業家で、500社以上の会社設立に関わり「日本近代資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一ゆかりの地を訪ね歩いた。訪ねた先々でガイドの方より丁寧な説明を受けたので、まずその概要をまとめておきたい。

 

    渋沢一族はこの地の開拓者の一つで、分家して多くの家を起こした。家のある場所により「東の家」「西の家」「前の家」「裏の家」と呼ばれたが、渋沢栄一は1840年(天保11年)「中の家(なかんち)」で生まれた。中の家は代々農業を営んでいたが、名字帯刀を許され、父の代には養蚕、藍玉造りとその販売のほか、雑貨屋や質屋も営み大変裕福であった。

栄一は近くに住む従兄の尾高惇忠(以前は「あつただ」と呼んでいたが、本人が晩年は「じゅんちゅう」と名乗っていたので、今は「おだかじゅんちゅう」で統一しているという)に論語などを学び、後に惇忠の妹千代と結婚している。尊王攘夷論に傾倒した栄一は高崎城乗っ取りを計画したが、その計画が破綻したので中の家を離れて京都に行き、そこで徳川慶喜の家臣となった。倒幕派から幕府の将軍の家臣になるという大転換であった。1867年にパリで開催された万国博覧会を視察する徳川昭武に随行して渡欧し、約2年間ヨーロッパの思想、文化、社会を見てきた。渡欧中に大政奉還があって明治新政府が誕生した。帰国後大隈重信に説得されて大蔵省に入り、貨幣改革や富岡製糸場の設立などを行った。富岡製糸の初代工場長は尾高惇忠が務めた。

1873年(明治6年)に大蔵省を退官し、第一国立銀行をはじめ約500社の設立に関わった。

栄一は実業のほかに教育事業や社会福祉事業にも力を入れ、子爵を授けられている。1931年(昭和6年)に92歳で死去。

また「尾高賞」で知られる作曲家で指揮者の尾高尚忠は尾高惇忠と渋沢栄一の孫であり、尾高忠明は曾孫になる。

 

    池袋9時14分発の高崎行きに乗り、10時35分に深谷に到着した。深谷駅は「レンガの町・深谷」のシンボルとして20年前に建てられた立派なレンガ造りの駅舎である。一同その見事さに感嘆した。      

深谷駅から渋沢栄一記念館方面には深谷市が運行するコミュニティーバス「北部定期便」で行くのだが、その定員は12名という小さなバスである。我々だけで10名いるので、ほかの乗客がいると乗り切れない可能性があり、その時は一部の人はタクシーを使うほかないと思っていたが、幸いにして全員が乗車できた。

 

    深谷駅から20分ほどの「せきね商店前」で下車した。そこは渋沢栄一が1887年(明治20年)に設立した日本煉瓦製造会社の工場があった場所である。この工場で作られた煉瓦は司法省、日本銀行、赤坂離宮、東京大学、東京駅など明治を代表する建築物に使用された。現在は事務所として使われた木造の洋館が残るだけで資料館となっているが、公開日は金曜日なので外観を見るだけであった。

 

 
       深谷駅    日本煉瓦資料館

 

    日本煉瓦資料館から5分ほど歩くと小山川に架かる小山橋である。この川は護岸工事がされていないので自然のままの川で、河原は高く生い茂った草で覆われ、所々に真っ赤な曼珠沙華が咲いている。川面には鴨やカイツブリが泳ぎ、白鷺やツバメが飛び交っている。

 

    小山橋から上流に向かって土手を歩いた。高塚橋までの約1.2qは人が歩いた形跡がなく、草は刈ってあったが大変ワイルドな道であった。ちょうどこの頃から晴れてきて気温も上がり夏日となってきた。辺りは一面のネギ畑である。高塚橋から共栄端までの約1.4qは舗装されて歩きやすい道であった。

 

      土手の道        曼珠沙華       ネギ畑

 

    共栄橋のたもとに誠之堂と清風亭がある。この二つの建物は世田谷区瀬田にあった第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内にあったもので、清和園が売却されるときに深谷市に移築したものである。誠之堂は渋沢栄一が喜寿を機に第一銀行頭取を辞任するときに行員たちから贈られたものである。煉瓦造りの平屋建で、外観は英国風であるが、内部は煉瓦造りの暖炉、中国の人物を描いたステンドグラス、大広間の円筒型の漆喰天井、次の間の網代天井など日本、朝鮮、中国、英国の文化をバランスよく取り入れた豪華なものである。清風亭は第一銀行二代頭取で、渋沢の補佐をした佐々木勇之助が古希の時に行員から贈られたものである。

 

       誠之堂 煉瓦で「喜寿」と書かれた外壁        清風亭

 

    共栄橋から北へ30分ほど歩き、「下手計」交差点を左折すると右手に渋沢の義兄であり、師であった尾高惇忠、妻・千代、養子となった平九郎、富岡製糸の第1号の伝習工女となった惇忠の娘ゆうが生まれた家がある。「油屋」という屋号の商家で、母屋の裏に油を収蔵した煉瓦造りの土蔵がある。

 

    尾高惇忠生家から20分ほど歩いて渋沢栄一の生地「中の家」に着いた。1時を過ぎ、お腹も空いていたので、まず隣の食事処「青淵亭」で昼食とした。暑い中を歩いてきたので生ビールが殊更旨かった。天婦羅うどんも大変結構であった。

 

    渋沢栄一が生まれた時の家は火事で焼失し、現在残っている家は妹夫婦が建てたものである。主屋の他に副屋と土蔵4つ、2つの門を有する大きな家である。正門の横には渋沢の武家姿の銅像が立っている。ここでガイドの方から渋沢栄一の略歴や業績について詳しい説明を聞いた。

 

   「中の家」の正門   「中の家」の主屋    渋沢栄一の銅像

 

    「中の家」から10分ほど歩いて渋沢栄一記念館に着いた。ここには渋沢に関わる手紙や写真などの資料が展示してある。バスの時間の関係で説明は受けず展示物を一通り見学した。

帰りも一般の乗客は2人だけだったので、全員がバスに乗れた。

 

渋沢栄一記念館は八基公民館、誠之堂と清風亭は大奇公民館に併設された施設で、いずれも会議室や集会室、イベントルームの他に体育館も持った立派な施設である。深谷市はかなり裕福な自治体であるという感じを受けた。

 

                  誠之堂の大広間で

俳句クラブのメンバーから俳句を頂きました

秋燕や風見の舘高巡り      良久

送電線平野つらぬき秋高し    勉

橋桁に吹かれて青き猫じゃらし  流牧

 

参加者  梶原松子、小島恕雄、幸子、志賀勉、中村仁美、滑志田隆、比留間房子、

松尾良久、水野聡夫妻、  以上10名

写真と文 小島

散策の会へ